「クリエイティブにまったなし! 」
平成の名横綱武蔵丸が横綱に昇進した1999年、福島のクリエイティブ界にこの人ありと言われた、田中聡と田村洋一によって設立された「デンヤ・クリエイティブ・ワークス」 現在は別々の会社を経営しながらクリエイターとしても活躍する両名に、これまでを振り返りながら、これからを語ってもらった。
出会いは突然だった。
しだいに実力を認め、切磋琢磨し、高め合う存在に。
いまから20年前、1999年に『デンヤ・クリエイティブ・ワークス』が設立しましたが、創業者のお二人の出会いはいつだったんでしょう?
- 田村
- 株式会社バウハウスに入社した時だから1994年か95年かな。僕は大学を卒業してプロスノーボーダーとしてカナダ渡ったんだけど、スキーカメラマンやCMコーディネーターの仕事をしていて。その時代、日本がバブル経済で潤っていたから大企業の仕事をさせてもらっていたね。
そうこうしているうちにバブルが弾けて仕事がまるっきり失くなっちゃった。で、帰国して仕事はあるだろうとおもっていたら本当にない。仕方がないからとりあえず郡山に戻って、バウハウスに入社したわけ。 - 田中
- それを聞いた時は「カナダから売れっ子クリエイターが来る!」って社内が騒然とした。実績をみてもとんでもない奴が来るんだなって、ドキドキしていたもの。と同時になんでウチに来るんだって疑問もあった。
- 田村
- 初めて出社した時、社員旅行に出かけていていなかったよね。
- 田中
- いなかった。だからはじめは「誰だろう?」と(笑)。この人は入社してすぐ伝説を作っちゃった。入社1週間後くらいに負傷して出社してきて、どうしたのかなと思ったら、社長と飲みに行って緊張のあまり貧血を起こして倒れたっていうわけ。あれはびっくりした。
- 田村
- 試用期間中だと会社の保険に入ってないから治療費が高いでしょ?あの時はお金がなかったからね。すぐに本採用にしてもらった。
倒れたのは意図的だったんですか?
- 田村
- そんなわけないでしょ(笑)。でもまぁ、そこから僕の日本でのサクセスストーリーが始まるわけですよ。
バウハウス時代、年始恒例の集合写真(田中と田村は左上)
そのサクセスストーリーの一部をお聞かせいただきたいんですが?
- 田村
- CM制作をする人材として入社したわけだけど、その頃バウハウスでは僕を含めて制作チームが4人。でも先輩たち3人よりヒット作を生み出すわけだから面白くないわけ。そのなかでもとある女性のY先輩からのイジメは大変だった(笑)。
- 田中
- そうだね、Yちゃんからは大変だったね。あの頃の代表作はなんだったかな?
- 田村
- やっぱりゼビオメンズかな。クライアントの担当者がやりたいことを具現化するという意味で、好きなことをやらせてもらえた。少ない予算だったけど、当時はまだ売れていない反町隆史さんとか竹野内豊さん、女優のRYOさんを起用してね。ゼビオの担当者が「このタレントさんは売れるから、起用しよう!」と言うから起用するんだけど、そのとおりに売れっ子になるから、人を見る目は確かだなって思いながら作っていた記憶がある。
あとはヨークベニマルの『いち・に・さんの市』かな。
福島県民なら誰でも口ずさめる、あのフレーズもですか!
- 田中
- バウハウスの大ヒット作だね。彼はバンドをやっていたせいか、いわゆる『歌もの』と言われるCM、目に残るより耳に残るCMを作るのが得意だった。
- 田村
- バンドやっていた。あなたも同時期にちがうバンドやっていたよね?でも音楽性がちがっていた。だからって仲が悪いわけじゃないよ。
- 田中
- 僕は東京の大学、彼は大阪の大学に通っていたから。東と西の音楽性のちがいかな(笑)。
デンヤ設立時の二人
クリエイターでバンドマンという共通項がありますが、お二人はどんな存在でしょうか?
- 田村
- 大学ですぐの若造が海外で1億2億の仕事をしてきたけど、郡山では100万や200万の仕事しかない。そういう状況の中で、これでもかというくらい企画書を書いて、いかにカタチにしていくかということで、いろいろと相談したりアイデアをもらったり助けてもらった。会社の中で年齢が近いから話しやすかった。同じクリエイターとして刺激を受ける存在かな。
- 田中
- クリエイターってアイデア勝負だったからね。知恵を出し合うことが大事だった。それに現代とちがって写植の時代だから、長体をかけるのも文字詰めするのもすべて手作業。手で作品を作り出す感覚を鍛えられた。
バウハウスは映像もグラフィックも両方できる会社だったから、お互いの考えを言うことができたしカタチにすることもできた。切磋琢磨したからこそ、今のベースになっていると思う。 - 田村
- 当時はコンペも多かったから、それに出すのに社内コンペもあった。そこでクリエイターたちがアイデアを出し合う。そこで選ばれることで自信にもなったね。
自分たちで勝ち得た評価。
一気に福島のクリエイティブ界のトップランナーに。
実力を高め、認めてきたお二人が『デンヤ・クリエイティブ・ワークス』を設立されました。当時のエピソードを教えてください。
- 田中
- 二人とはいっているものの実は彼が先だった。辞める前に「田中さんと一緒に会社を起こす」って言っちゃったから会社は大変。僕が周囲をなだめながら合流したわけ。
いろいろと波風がたったのでは?
- 田村
- まあ、それは仕方ないよね。でも映像に関してはアテにしていたこともあったから、ちょっとヤバイかなとも。
- 田中
- 想定していたことではあったけど、逆にデンヤの名前を知らしめるにはよかった。ほかの代理店や会社と組むことができて、仕事の幅も広がったし特に映像に関しては、運もあったかもしれないけどコンペで勝つ続けることができて。だから「あのCM作ったのはどこだ?」って評判になったね。
- 田村
- 東北電力とかNTTドコモとか。CMって代理店を通さないといけないでしょう?だから評判になったことで、取引先も広がったり、ありがたいことにゼビオやヨークベニマルとか、バウハウス時代から一緒にやっているクライアントのお仕事も直接できるようにもなった。
- 田中
- あと『うつくしま未来博』(2001年)の仕事に携わったのも大きいかな。グラフィックも映像もいろいろとやって、売上もすごかった。
飛ぶ鳥を落とす勢いだったわけですね。
- 田村
- そう。それで天狗になっていたから(笑)。一時期、会社の前に停めてあるクルマが全部ベンツだった時代もあったね。僕も性格上、後先考えずに突っ走っちゃうタイプだから、誰か止めてくれないと糸の切れた凧みたく、制御できなくなっちゃう。でもそれを「ちょっと待ちなさい!」と止めてくれるのが田中さんだったね。 僕自身、稼いだお金は自由に使いたい、人の目を気にするのが嫌なタイプだから、周りを気にしなかった。田中さんは逆のタイプで、人の目も周りのことも気にする。このコンビだからこそ成り立っていたかもしれないね。
離れてみても行き着くところは、
お互い『いいモノ』を一生懸命に作り上げること。
女優の米倉涼子さんを起用したCM撮影
ところが2004年に田村さんがデンヤを離脱しました。なにかあったんでしょうか?
- 田中
- 性格の不一致だっけ?
- 田村
- いやいやそうじゃないでしょ(笑)。市場的に飽和状態になってきたことと、ちょっと熟れてきてしまっておもしろ味が薄れてきた。その時、東京からも声をかけていただいていたんで、そっちでやってみたいと思ったのがきっかけだったかな。あと「デンヤ」ではなく「田村」という一人のクリエイターとしてやって勝負してみたかったいうのはあった。
一人のクリエイターとして勝負しようという田村さんを見て、田中さんはどう感じましたか?
- 田中
- 一人で勝負しようという気持ちに羨ましさはあったけど。それよりも、彼は突っ走っちゃうタイプだからそれが心配でね。バウハウス時代から甘い誘惑に寄って行くところがあったから。騙されてるからって止めると「田中さんはどうして僕の幸せを奪うんだ」って、本気で怒ることもあるくらいで、気が気じゃなかった。
- 田村
- あの時はなんで止めるんだって思ったけど、思い返してみれば止めてくれてありがたいよね。
田村さん、危険ですね(笑)。
- 田中
- でも、そういう子どもみたいなところがクリエイティブな面にも生きているのかなって思うね。
- 田村
- 子どもじゃなくて少年って言ってくれる(笑)。
- 田中
- もちろん大人としてのクリエイティブ力も必要だけど、童心に帰るというか、無邪気なクリエイティブ力を持ち合わせているというか。そこはあなたのすごいところだなと思うわけ。
あと、意外に段取りが上手い。それに大胆にお金を使う割に管理も上手。人の嫌がることをさり気なくやる。感心する。今の若いクリエイターにないものを持っていると思う。
田中さんから「若いクリエイター」という言葉が出てきました。今それぞれの会社を経営され、次世代の育成についてはどう考えていらっしゃいますか?
- 田中
- 育成というか、やっぱり本人次第というところはあるかなと。細かいところに気づくとか、人のやらないようなことをやるとかね。技術的なことを教えるには限界があるし、まずそういうことは技を盗むではないけど、見て学ぶ必要がある。あとは感覚や感性を磨くこと。そのためにはいい仕事をするしかないし、僕とか彼はいい仕事をとって来ることが大事になってくる。
最近では、与えられた仕事はそつなくこなすけど、自分からガツガツ仕事をするタイプの若者がいないと言われていますが。
- 田中
- 東京には欲深い連中はたくさんいるんじゃないのかな?地方は貪欲な若者が少ないから、我々がいいクルマに乗ったりいい暮らしをすれば、憧れてくれるのかな、なんて思っちゃうけどね。
メジャーリーグで活躍している大谷翔平選手がいるように、クリエイティブ業界にも、みんなが憧れるスーパースターが出てこないと。 - 田村
- いやそんなことないよ、今どきの若いスタッフはとにかく欲がない。我々の世代だったらいいクルマに乗りたい、美味しいものが食べたい、旅行に行きたいって、欲望があるじゃない?でもそれがない。30代のスタッフに将来はどうなりたいかと聞いてみても、わからないって答える。そう言われちゃうとこっちも困るよね。 僕のようになれとは言わないけど、憧れを持ってほしいかな。
今後それぞれの目指すところを教えていただけますか?
- 田中
- 経営者としてはやっぱり会社を継続させていくこと。クリエイターとしては頼ってくれるクライアントがいる限り、いい仕事をしていきたい。こっちから「仕事ください」ってなった時が潮時かな。
- 田村
- モテたい。
一同(笑)
- 田村
- モテるためにいい仕事をする。これに尽きるかな。あと「この仕事は田村しか頼めない」って、いつまでも言われるように頑張ること。それから田中さんと同じで「仕事ください」ってなったら仕事を辞める(笑)
本当はまだまだお話を伺いたいのですが、設立30周年までとっておきたいと思います。今日はありがとうございました。